「KAWANOWA」な人たち Vol.8後編
株式会社服部 代表取締役 服部栄一氏 インタビュー
「創業以来の匠の技を活かした縫製技術。業界でも“難もの”を手掛ける」

KAWANOWAな人たち

服部社長のところには、様々な難しいデザインの案件が入ってくるそうです。技術力のある職人さんも減っているご時世、とても希少な存在と言えます。
また服部社長のお話を伺いました。

"難もの"をこなせる実力派

靴づくりとバッグづくりを比べてみると、靴のほうがより"工業生産的"と言われます。靴の甲革部分を作る"製甲職人"もいますが、最終的には靴の『甲革』と『底材』とを、大型の機械で圧着させるプロセスが必要。その工程があるため、手作りというよりも工業生産の趣があります。

逆にハンドバッグや財布は、一人の職人が最後まで一貫してハンドメイドで作ることが可能です。服部社長のところでは、父親の代から腕の良い職人を抱え、爬虫類製などの和装バッグを作製していました。かっちりしたクラシックなデザインや、難しい爬虫類素材は、昔から得意ジャンルだったそうです。

「特にうちは"難もの"と呼ばれる、他のメーカーが嫌がってしまう難しい形状のものもこなせる技術力があります。背景には、どんな形も作り上げようとするベテラン職人の経験値と、不良品や返品を出さないというスタッフの"志"によるところが大きいと思います。」

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この抜き型から、"難もの"が生まれます。

青山に直営をショップオープン

まだメーカー発の直営店など少なかった時代、服部社長は2000年に南青山に、50坪の直営店をオープンします。
「PULCINO(プルチーノ)」という店舗名はイタリア語で「ひよこ」。"お客様とともに成長し続けたい"という想いで付けたネーミングだそうです。服部社長のイタリア好きなところも反映されています。

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直営店のフライヤー。当時の店内の様子がうかがえます。

「やはり嬉しかったですよね。直営店は憧れでした。青山という土地柄、お客さんはブランドものを手にした富裕層の方が多かったですね。

ある時、エルメスを持った女性が、同じ素材でお揃いのものをとオーダーされました。当然数十万円のブランドと同価格という訳にはいきませんが、小売経験がなかったため値付けのバランスがわからず、思った以上に格安で受けてしまったこともありました。『ものづくり』と『販売』というのは、全く違うアタマを使うということも分かりましたね。

張り切ってオープンしたものの、最初に気がかりだった50坪という広さが、徐々に負担になってきました。マーケットの情報を収集する場としても最適でしたが、10年間でショップは幕を下ろしました。」

服部社長のパワフルさがうかがえるエピソードです。
ご自身も積極的に売場に立ち、接客されていたこともあったそうです。ものづくりだけに偏らず、様々な経験をされているからこそ、"こんなものがあったらいいな"という発想が生まれるのだと実感しました。
またやってみたいと思いますか?という質問には。

「もちろんです!ショップを出したことは全く後悔してない。本当にやってよかった。また資金力があればやってみたいと思っています。」
さすがのバイタリティーですね。

技術認定1級試験に合格した職人さんも

株式会社服部には、(社)日本皮革産業連合会で認定している職人のライセンス、<鞄・ハンドバッグ・小物技術認定(皮革部門)>の1級を取得した腕利き職人さんがいます。

この試験は、職人の技術や知識を一定以上の基準によって認定するものですが、やはり1級に合格する人は業界内でも大変希少な存在。難しいものを作れる技術力は、こういった試験という形で外部からも評価されるほどです。
彼らの匠の技を生かし、上質なレザーを厳選して、丁寧に縫製しているのが特徴と言えます。

先代から、「量を追い求めることはしない」という姿勢を貫いてこられた服部さん。職人さんに対する工賃も、他よりも高く出しているとのこと。

「イタリアでは、職人の方がホワイトカラーの人たちよりも職業的には上だ、という風土があるんです。日本ではなかなか難しいけれど、私自身が職人さんたちをリスペクトすることで、日々の仕事に張り合いと自信を持ってもらいたいと思っています。」
との言葉に、職人さんへの深い愛情を感じます。

全メンバーが集まるKAWANOWAに

そして、KAWANOWAをこれからどんな場にしていきたいですか?との質問をぶつけてみました。

「理事長という立場もありますが、KAWANOWAにはぜひ全メンバーが参加してほしいと思っています。そのためにも"売れる"ということが重要ですけれどね(笑)
なんだか面白そうだ、盛り上がっているな、という雰囲気にしていって、情報もどんどん発信していこうと思います。せっかく作り上げた場なので、みんなが参加して楽しいと思えるようにしていきたいですね。」

【PULCINO】エレフォー・バック(中)

【PULCINO】エレフォー・バック

服部社長のお話しは様々な経験に裏打ちされてとても面白く、インタビューでもアッという間の2時間。まさかの革やバッグの歴史にまで、話が深まりました。そして最後は、「ぜひ鳥越神社の祭りに来てください!」という台詞でお開きに。そんなに熱く語って頂いたので、今年はぜひお祭りに伺って、お神輿をかつぐ服部さんを拝見したいと思いました。服部社長、ありがとうございました!

PULCINO(服部)の商品はこちら

◆株式会社服部
東京都台東区浅草橋5-5-2 03-3863-2448

 


 

★物知りコラム

“ハンドバッグ”“鞄(かばん)”は、厳密に言うと同じジャンルではありません。
ハンドバッグは婦人物のバッグ、鞄は紳士物のかっちりしたビジネス向けのバッグを指します。

紳士物の鞄の発祥は、着物の収納などに使用してきた“柳ごうり”作りから始まりました。「兵庫県豊岡市」が、現在国内では鞄の一大産地で、国内のメンズの著名かばんブランドはメイドイン豊岡のことが多いです。

文責 CHIEnoWAコミュニケーション 川崎智枝

「KAWANOWA」な人たち Vol.8前編
株式会社服部 代表取締役 服部栄一氏 インタビュー
「創業以来の匠の技を活かした縫製技術。業界でも“難もの”を手掛ける」

KAWANOWAな人たち

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東日本ハンドバッグ工業組合の理事長を務める、衂部 代表取締役 服部栄一氏
後編はこちら

現在、「KAWANOWA」参画メンバーを束ねるのが、東日本ハンドバッグ工業組合の理事長を務める服部栄一さん。

服部さんは、創業昭和33年の老舗ハンドバッグメーカー「株式会社服部」の三代目です。叔父、そして父親の代を経て、いまの会社を引き継がれ、腕の良い職人さんたちとともに、“難もの”と呼ばれる難しい技術を要する数々の製品を作ってきました。

服部さんは幼少期からここ浅草橋に住み、街の歴史をリアルに感じてきている方。
今では地元の祭り…それも「浅草三社祭」より盛り上がると言われる“鳥越祭り(とりごえまつり)”の要職も務められています。祭りのこととなると熱く乗り出してお話しされるところなどは、さすが下町気質です。お聞きしながら、かつて浅草橋や蔵前界隈が職人街やものづくりの工場が連なって賑やかだった様子が浮かび上がります。
この時代背景などのお話しを伺える機会が減っている昨今、若い方々にもぜひ知って頂きたいですね。

台東区界隈になぜ革のものづくりが多いのか

なぜ浅草、蔵前、浅草橋、御徒町といった台東区界隈が、ものづくりの職人の街と言われているのか…。
今まで不思議に思うことなく、“そういうものだ”と感じている方は多いかと思います。まずは服部社長のこんなお話しから始まりました。

「『浅草』エリアはかつて革の生産地で、墨田川の豊かな水で鞣し業を行っていました。革の生産量の増大とともに“製靴業”も勃興し、浅草は全国でも名高い「革と靴」の生産地でした。
大正、昭和にかけて台東区の人口が増加するに伴い、徐々に住宅が革工場のそばに迫っていきます。大きなスペースが必要な革鞣し工場は、墨田区の東側へと次々と移転していきました。その際に「革問屋」と「靴製造」は浅草に残り、現在に至っています。そして墨田区にはタンナー(主にピッグレザー)が多いのは、その時からの歴史があるようですね。」

浅草の南側の街「蔵前」は、金具などの「パーツ」問屋さんが多く集まっています。そして更に南に位置する「浅草橋」は、ものづくりを支える職人さんの街でした。ちょうど浅草橋と蔵前の間に“おかず横丁”と呼ばれる通りがありますが、ここは職人さん一家の食卓を支える重要な存在でした。

職人一家の食卓を支えた“おかず横丁”

「昔は職人仕事は、家族ぐるみでやっているところが多かったんです。家では、母親も仕事をしているため、なかなか子供たちの夕食作りもままなりません。この横丁で晩のおかずを買って、子供たちに食べさせていた家がほとんどでした。私も小さい頃は、ここのコロッケが夕飯の定番でしたね。」と笑う服部さん。

おかず横丁はいまでもその名残があり、肉屋、豆腐屋、味噌屋など、昭和の香りを残す店舗が軒を連ねています。最近ではその店の合間に、ポツポツと若手職人が店舗のリノベーションを施して、バッグや革小物といったのショップを開いたり、工房を構えたりしています。雰囲気はそのままに、店の並びは今どきの商店街の様相を呈してきました。

喫煙具と財布、バッグのつながり

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今まで知らなかった"歴史"をたくさん語っていただきました

「当時は、職人さんと言えば“和装バッグ”、“がま口”、“喫煙具”を作製する人が多かったです。実は財布職人さんは、かつて喫煙具を作っていた方が多かったんです。細かな手作業をこなせることから、徐々に今のような財布作りにシフトしていったようですね。
また日本の靴産業の歴史は意外と長く、2020年のオリンピックで150周年を迎えるそうです。反面、バッグは案外歴史的には浅いんですよ。着物から洋装に移っていった頃に、ようやくハンドバッグが流行りました。まさに“ドレメ(ドレスメーキング)”の時代ですね。」

日本が洋装に切り替わったのは1950年代以降なので、実はまだ60年ほどの歴史しかないそうです。着物の時代ももちろんバッグはありましたが、かっちりしたフォーマルなデザインが主流で、庶民はふろしきがメイン。確かにそうですね。バリエーションもそれほど豊富ではなかったとのことです。

がま口、喫煙具、財布、そしてバッグへと、時代が移るにつれて、要望されるものが変わり、そして職人さんの仕事も変わっていったという背景は、とても興味深かったです。

なかなかお聞きできないこの業界のリアルな歴史。繋がることでハッと思えることも多いです。さて、次回はいよいよ服部さんのものづくりについてお聞きします。

文責 CHIEnoWAコミュニケーション 川崎智枝