「KAWANOWA」な人たち Vol.8前編
株式会社服部 代表取締役 服部栄一氏 インタビュー
「創業以来の匠の技を活かした縫製技術。業界でも“難もの”を手掛ける」

KAWANOWAな人たち

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東日本ハンドバッグ工業組合の理事長を務める、衂部 代表取締役 服部栄一氏

現在、「KAWANOWA」参画メンバーを束ねるのが、東日本ハンドバッグ工業組合の理事長を務める服部栄一さん。

服部さんは、創業昭和33年の老舗ハンドバッグメーカー「株式会社服部」の三代目です。叔父、そして父親の代を経て、いまの会社を引き継がれ、腕の良い職人さんたちとともに、“難もの”と呼ばれる難しい技術を要する数々の製品を作ってきました。

服部さんは幼少期からここ浅草橋に住み、街の歴史をリアルに感じてきている方。
今では地元の祭り…それも「浅草三社祭」より盛り上がると言われる“鳥越祭り(とりごえまつり)”の要職も務められています。祭りのこととなると熱く乗り出してお話しされるところなどは、さすが下町気質です。お聞きしながら、かつて浅草橋や蔵前界隈が職人街やものづくりの工場が連なって賑やかだった様子が浮かび上がります。
この時代背景などのお話しを伺える機会が減っている昨今、若い方々にもぜひ知って頂きたいですね。

台東区界隈になぜ革のものづくりが多いのか

なぜ浅草、蔵前、浅草橋、御徒町といった台東区界隈が、ものづくりの職人の街と言われているのか…。
今まで不思議に思うことなく、“そういうものだ”と感じている方は多いかと思います。まずは服部社長のこんなお話しから始まりました。

「『浅草』エリアはかつて革の生産地で、墨田川の豊かな水で鞣し業を行っていました。革の生産量の増大とともに“製靴業”も勃興し、浅草は全国でも名高い「革と靴」の生産地でした。
大正、昭和にかけて台東区の人口が増加するに伴い、徐々に住宅が革工場のそばに迫っていきます。大きなスペースが必要な革鞣し工場は、墨田区の東側へと次々と移転していきました。その際に「革問屋」と「靴製造」は浅草に残り、現在に至っています。そして墨田区にはタンナー(主にピッグレザー)が多いのは、その時からの歴史があるようですね。」

浅草の南側の街「蔵前」は、金具などの「パーツ」問屋さんが多く集まっています。そして更に南に位置する「浅草橋」は、ものづくりを支える職人さんの街でした。ちょうど浅草橋と蔵前の間に“おかず横丁”と呼ばれる通りがありますが、ここは職人さん一家の食卓を支える重要な存在でした。

職人一家の食卓を支えた“おかず横丁”

「昔は職人仕事は、家族ぐるみでやっているところが多かったんです。家では、母親も仕事をしているため、なかなか子供たちの夕食作りもままなりません。この横丁で晩のおかずを買って、子供たちに食べさせていた家がほとんどでした。私も小さい頃は、ここのコロッケが夕飯の定番でしたね。」と笑う服部さん。

おかず横丁はいまでもその名残があり、肉屋、豆腐屋、味噌屋など、昭和の香りを残す店舗が軒を連ねています。最近ではその店の合間に、ポツポツと若手職人が店舗のリノベーションを施して、バッグや革小物といったのショップを開いたり、工房を構えたりしています。雰囲気はそのままに、店の並びは今どきの商店街の様相を呈してきました。

喫煙具と財布、バッグのつながり

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今まで知らなかった"歴史"をたくさん語っていただきました

「当時は、職人さんと言えば“和装バッグ”、“がま口”、“喫煙具”を作製する人が多かったです。実は財布職人さんは、かつて喫煙具を作っていた方が多かったんです。細かな手作業をこなせることから、徐々に今のような財布作りにシフトしていったようですね。
また日本の靴産業の歴史は意外と長く、2020年のオリンピックで150周年を迎えるそうです。反面、バッグは案外歴史的には浅いんですよ。着物から洋装に移っていった頃に、ようやくハンドバッグが流行りました。まさに“ドレメ(ドレスメーキング)”の時代ですね。」

日本が洋装に切り替わったのは1950年代以降なので、実はまだ60年ほどの歴史しかないそうです。着物の時代ももちろんバッグはありましたが、かっちりしたフォーマルなデザインが主流で、庶民はふろしきがメイン。確かにそうですね。バリエーションもそれほど豊富ではなかったとのことです。

がま口、喫煙具、財布、そしてバッグへと、時代が移るにつれて、要望されるものが変わり、そして職人さんの仕事も変わっていったという背景は、とても興味深かったです。

なかなかお聞きできないこの業界のリアルな歴史。繋がることでハッと思えることも多いです。さて、次回はいよいよ服部さんのものづくりについてお聞きします。

文責 CHIEnoWAコミュニケーション 川崎智枝